この城について
来島海峡の急流に浮かぶ来島すべてを城郭とした、村上水軍三家の一つ・来島村上家の本拠。能島城と同じく「島そのものが城」という水軍城で、来島海峡は日本三大急潮の一つとして知られる。
歴史・由来
来島城(くるしまじょう)を理解する鍵は、「島そのものを城とした水軍の本拠」という成り立ちと、「秀吉への接近を選び、海賊から大名へと転じた」来島村上家の歩みにある。
応永26年(1419)、村上義顕(むらかみよしあき)の三男・村上吉房(むらかみよしふさ)がこの地に分家し、来島海峡の急流の中央に浮かぶ「来島(くるしま)」全体を城郭とした。これが来島村上家(くるしままうかみけ)の始まりで、能島村上家・因島村上家と並ぶ村上水軍三家の一つとして、約160年・6代にわたり続いた。
来島海峡は瀬戸内海でも潮の流れが最も速い場所のひとつで、潮流は最大10ノット(約18.5km/h)に達するとされる。古くから「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸(ばかんのせと)」と並べて唄われた、鳴門海峡・関門海峡とともに日本三大急潮のひとつである。この激流を自在に操る水軍として、来島村上家は海峡の通行料を徴収しながら勢力を保った。
戦国末期、来島通総(くるしまみちふさ)は、能島村上家・因島村上家とは異なる道を選び、天正9年(1581)頃から羽柴秀吉に接近した。天正10年(1582)前後、通総は秀吉方へ転じ、天正13年(1585)の四国征伐の功により伊予風早郡(いよかざはやぐん)1万4000石を得ると、来島城を離れて兄・得居通幸(とくいみちゆき)の鹿島城(かしまじょう)を新たな本拠とした。来島城はこの頃に廃城となったと伝わる。「海賊から大名へ」の転身は、戦国末期を象徴する出来事のひとつといえる。
通総はその後、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に従軍し、慶長2年(1597)の鳴梁(ノリャン)海戦で討死した。跡を継いだ子の来島康親(くるしまやすちか、長親とも)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため戦後に所領を没収されたが、妻の伯父・福島正則の取り成しにより、慶長6年(1601)に豊後国森(ぶんごのくにもり、今の大分県玖珠郡)1万4000石を与えられた。ただし、この時すでに来島城は廃城となって15年以上が経っており、関ヶ原の戦後処理と来島城そのものの廃城は直接結びつかない。
明治以降、来島は人口の少ない島となり、城の遺構は雑木に覆われた。近年は来島海峡大橋(しまなみ海道)の開通に伴って観光地化が進み、徐々に注目を集めるようになった。
見どころ・特徴
【島そのものが城】来島海峡の急流の中央に浮かぶ、周囲約1kmの小島全体が城郭となっている。能島城と同じ「海城」の形態。
【残る遺構】本丸・二の丸・三の丸などの削平地や、石垣、井戸跡が雑木の中に点在する。北側・東側の岩礁には、船を係留した柱穴(岩礁ピット)が無数に残り、戦国時代の階段跡も見られる。
【島の最高地点からの眺め】標高41mの最高地点からは、来島海峡・瀬戸内海・しまなみ海道を望むことができる。
【しまなみ海道から】しまなみ海道のサイクリングコースからは、来島海峡大橋越しに来島を見渡せる。
【水軍の旅と組み合わせて】能島城など、近隣の村上水軍関連史跡と組み合わせて巡られることが多い。整備状況は能島城ほど進んでいないため、渡船の時刻や島内の安全には事前に注意したい。
学び・特徴
築城
応永26年(1419)、村上義顕の三男・村上吉房による築城
テーマ
村上水軍
基本情報
住所
愛媛県今治市来島
見学時間
島への定期船は1日10便程度運航(波止浜港~来島~小島~馬島)。見学できる時間は船の運航時間内に限られる。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
今治市波止浜港から定期船で約5分(運賃は大人160円、小学生80円。1日10便程度)。JR今治駅からは市内バスで波止浜港まで移動。車の場合は今治北ICから約6分。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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