この城について
別名「霧ヶ城」。標高約717m、日本三大山城の一つ(高取・備中松山と並ぶ)。鎌倉期から続く中世山城を、戦国期に大改修。「女城主」おつや(織田信長の叔母)が城主を務めた逸話で有名。
歴史・由来
岩村城を理解する鍵は、鎌倉時代から戦国時代末期まで約390年間にわたり一つの一族(遠山氏)が治めた城が、わずか数年のうちに武田・織田の争いに巻き込まれ、悲劇的な結末を迎えたという、その急変にある。
築城は鎌倉時代初期にさかのぼる。源頼朝の重臣・加藤景廉(かとうかげかど)が文治元年(1185)頃、地頭としてこの地に入った。その子・景朝(かげとも)が地名にちなんで遠山氏を称し、以後遠山氏が代々岩村を支配した。標高717mの本丸は、江戸時代の府城としては全国で最も高い場所に築かれ、日本三大山城の一つとされる(大和の高取城、備中の松山城と並ぶ)。
戦国末期、遠山氏当主・遠山景任(とおやまかげとう)が世継ぎのないまま病没すると、その妻・おつや(織田信長の叔母)が事実上の城主を務めた。「女城主」が城を治めた珍しい事例として知られる。
元亀3年(1572)11月、武田信玄の家臣・秋山虎繁(あきやまとらしげ、信友)が岩村城を包囲し、同月中に開城させた。虎繁は、籠城側の助命と引き換えにおつやとの婚姻を条件として示し、翌元亀4年(1573、同年に天正と改元)2月から3月にかけて、おつやはこれを受け入れて虎繁と婚姻、虎繁が城主となった。
天正3年(1575)、織田信長は長篠の戦いの勝利後に岩村城を攻め、同年11月、秋山虎繁を降伏させて城を奪還した。信長は虎繁とおつやの夫妻を捕らえ、長良川の河川敷で逆さ磔(はりつけ)にして処刑したと伝わる。信長が自らの叔母を手にかけたこの出来事は、戦国史に残る痛ましい逸話として語られている。
その後、岩村は織田・豊臣・徳川の支配を経て、慶長5年(1600)以降は松平氏、丹羽氏、再び松平氏と藩主が変遷し、明治維新まで続いた。明治の廃城令で建造物は解体されたが、総延長1.7km・約4万個の石からなる石垣の遺構は今も残り、日本三大山城の名にふさわしい規模を誇る。
見どころ・特徴
【六段壁】
本丸の下に広がる、6段に積み上げられた高石垣。急峻な地形に対応するための工法で、岐阜県指定史跡に指定されている。山頂の本丸を支える壮観な構造物。
【霧ヶ井(きりがい)】
本丸にある、城主専用とされた井戸。高所にありながら水が涸れないとされ、「霧ヶ城」という別名の由来にもなったと伝わる。岩村の町がもともと霧に覆われやすい土地であったことにちなむ。
【本丸裏門】
野面積み・打ち込みハギ・切り込みハギという3種類の石積み技法を一度に見ることができる、珍しい箇所。
【岩村城下町】
江戸期の商家・武家屋敷が良好に残る町並みで、平成10年(1998)、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された(全国で48番目)。
【岩村醸造「女城主」】
女城主おつやにちなんで名付けられた地酒。城下町の酒蔵・岩村醸造で蔵元見学や試飲ができる。
学び・特徴
指定・選定
岐阜県指定史跡(昭和32年/1957年12月19日指定)。日本100名城の第38番に選定されている。岩村城下町は平成10年(1998)、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された(全国で48番目)。
築城
文治元年(1185)頃、加藤景廉が地頭として入り、その子・景朝が遠山氏を称して築城・整備したと伝わる。
テーマ
日本三大山城日本100名城女城主石垣重要伝統的建造物群保存地区
基本情報
住所
岐阜県恵那市岩村町
見学時間
城跡そのものに営業時間の設定はなく、散策は日中が推奨される。岩村歴史資料館前の駐車場から本丸までは徒歩約30分の登山となるため、十分な時間と装備での来訪が望ましい。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
明知鉄道「岩村」駅から徒歩約60分の登山。車の場合は、岩村歴史資料館前の無料駐車場を利用し、そこから本丸まで徒歩約30分。中央自動車道「恵那」ICから国道257号経由で約20分。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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