TabiShiri
城 御城印 新城市

長篠城

ながしのじょう

この城について
天正3年(1575)、武田勝頼の大軍に対し、城主・奥平貞昌(さだまさ、後に信昌と改名)が籠城。援軍要請の使者・鳥居強右衛門の活躍を経て、織田信長・徳川家康の連合軍が武田軍を打ち破った「長篠の戦い」の舞台となった城。戦国史の転換点として知られる。

歴史・由来

天正3年(1575)5月21日、戦国史の流れを変えた「長篠の戦い」の舞台となった城である。 築城は永正5年(1508)頃、菅沼元成(すがぬまもとなり)によると伝わる。菅沼氏は奥三河の小豪族で、武田・今川・徳川の三大勢力の境界に位置する戦略的要衝として、長篠城を本拠とした。 元亀4年(天正元年、1573)、当時武田方だった奥平貞能(おくだいらさだよし)・貞昌(さだまさ)父子は、信長の進言を受けた家康から「家康の長女・亀姫を貞昌に嫁がせる」という条件を示され、徳川方への帰順に転じた。これ以後、貞昌が長篠城を守ることとなる(「信昌」への改名は、合戦の後のことである)。 天正3年(1575)4月、武田勝頼が大軍(通説では1万5千、兵力には異説もある)で長篠城を包囲した。城兵わずか500ほどの貞昌は奮戦し、家康への援軍を要請する使者として、足軽の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を城外に送り出した。強右衛門は5月14日に城を抜け出し、翌15日に岡崎城へ到達して救援を伝えたが、16日の帰路に武田軍に捕らえられた。偽りの伝言を拒み、城に向かって「援軍は来る」と叫び続けた末に磔(はりつけ)にされたと伝わり、忠義の人物として今に語り継がれている。 5月21日、織田信長・徳川家康連合軍(通説では3万8千)と武田勝頼軍(通説では1万5千、ともに異説がある)が、長篠城北西の「設楽原(しだらがはら)」で激突した。織田・徳川方の鉄砲が武田の騎馬隊を打ち破ったとされ、「鉄砲が騎馬を破った」合戦として知られているが、よく語られる「鉄砲3,000挺・三段撃ち」という逸話は、信頼性の高い『信長公記』の記述(鉄砲約1,000〜1,500挺)とは数字が食い違い、三段撃ち自体も江戸期以降に広まった逸話とみられ、史実かどうかは近年の研究で疑問が示されている。 合戦後、貞昌は信長から一字を賜って「信昌」と改名し、通説では翌天正4年(1576)、新城(しんしろ)に新たな城を築いて移転、長篠城は廃城となった(築城年を天正3年とする資料もある)。

見どころ・特徴

【長篠城址史跡保存館】 長篠の戦いを学べる史跡保存館。鳥居強右衛門にまつわる資料や合戦関連の史料などから、合戦の全貌を立体的に理解できる。日本100名城(第46番)のスタンプも設置されている。 【城の遺構】 本丸跡・空堀・土塁が良好に残る。寒狭川(かんさがわ)と豊川の合流点という、天然の要害の地形が、当時の籠城の様子を実感させる。 【鳥居強右衛門を顕彰する碑】 「鳥居強右衛門磔死之碑」など、忠義の使者を顕彰する石碑が境内周辺に立つ。 【周辺の合戦史跡】 北西には、合戦の主戦場となった「設楽原古戦場」や馬防柵跡などが残り、合わせて訪れる人も多い。 戦国の天下分け目を実感する、重要な歴史的舞台である。
年中行事・お祭り
【長篠合戦のぼりまつり】 毎年5月5日、長篠城址周辺で開催される祭り。武者行列や火縄銃の演武などが行われ、合戦の雰囲気を体感できる(2026年は第61回を迎える)。 ※開催日時・内容は年によって変更される場合があります。お出かけ前に新城市公式サイト等で最新情報をご確認ください。

※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。

学び・特徴
指定・選定
国指定史跡(昭和4年/1929年12月17日指定)。日本100名城・第46番(平成18年/2006年4月6日選定)。
築城
永正5年(1508)頃、菅沼元成(すがぬまもとなり)による築城と伝わる。
基本情報
住所
愛知県新城市長篠字市場22-1
アクセス
JR飯田線「長篠城」駅から徒歩約8分。新城市の山あい、寒狭川と豊川の合流点に位置する。
記念メダル

スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。

見学記録

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