この城について
中国地方の覇者・毛利元就(もうりもとなり)の本拠。標高390メートルの郡山全域に270もの曲輪を配する、西日本最大級の戦国期山城。一代で安芸の小領主から中国地方の覇者に成り上がった元就の知略の本拠地で、日本100名城(72番)に選ばれている。
歴史・由来
郡山城を理解する鍵は、一つの山全体が丸ごと要塞に姿を変えていった、その規模の変化そのものにある。
毛利氏の祖・毛利季光(もうりすえみつ)は、承久の乱(1221)の戦功により、安芸国吉田荘(現在の安芸高田市吉田町)の地頭職を与えられた。ただし季光自身が現地に入ったわけではなく、実際に吉田荘へ移り住んで勢力を築いたのは、季光の子・毛利時親(もうりときちか)である。時親は建武2年(1335)ごろ、郡山に城を築いたと伝わるが、史料の上で城の存在が確認できるのは享徳2年(1453)以降とされ、当初は郡山全体ではなく、尾根の一部を使った小規模な「本城」であったとみられている。
この小さな城が現在のような姿になったのは、毛利元就(1497〜1571)の代である。元就は一介の国人領主から、知略と戦略によって中国地方一円を統一する戦国大名へと成り上がった。天文9年(1540)から翌年正月にかけて、尼子詮久(あまごあきひさ)率いる3万ともいわれる大軍がこの郡山城に攻め寄せたが、元就は農民を含む8000余りで籠城し、これを撃退した(郡山合戦)。この勝利が、毛利氏による中国地方統一の出発点となった。天文20年(1551)ごろからは本格的な拡張が進められ、山全体に270もの曲輪を配する、12本の尾根と12の谷を生かした巨大な城郭へと姿を変えた。
天正19年(1591)、孫の毛利輝元(てるもと)が広島城を築いて本拠を移すと、郡山城は本拠としての役目を終えた。慶長20年(1615)の一国一城令により建物は取り壊され、廃城となった。
昭和15年(1940)に国の史跡に指定され、昭和63年(1988)には「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として指定範囲が広がった。平成18年(2006)には日本100名城(72番)に選定されている。
見どころ・特徴
【本丸まで続く戦国山城の縄張り】
本丸までは登山道を歩いて30〜60分ほど。「百万一心」の石碑や毛利一族の墓所、各郭跡をめぐりながら、山全体を要塞化した戦国山城ならではの縄張りの妙を体感できる。
【毛利元就の墓】
本丸近くには、五輪塔の形をした毛利元就の墓が静かに佇む。中国地方を統一した武将の最期の地として、今も多くの歴史ファンが訪れる。
【「百万一心」の石碑】
郡山城の拡張工事が難航した際、元就が人柱の風習をやめ、代わりに「百万一心(一日一力一心)」と刻んだ石を埋めさせたという逸話にちなむ石碑。ただし、肝心の原石は江戸期以降の探索でも見つかっておらず、今の石碑は昭和6年(1931)に拓本をもとに復刻されたもので、原石の所在は「郡山城最大の謎」といわれている。
【安芸高田市歴史民俗博物館】
麓の博物館では、毛利元就や郡山合戦、毛利家の歴史を資料や模型で学べるほか、100名城スタンプやデジタルガイドマップの貸し出し、御城印・御城印帳の販売も行っている。
【訪ねかた】
本格的な山城なので、歩きやすい靴での訪問がおすすめ。博物館に立ち寄ってから登ると、曲輪や史跡の意味がぐっとわかりやすくなる。
学び・特徴
築城
建武2年(1335)ごろ、毛利時親(もうりときちか)が安芸国吉田荘に入り築城したと伝わる。ただし史料上で城の存在が確認できるのは享徳2年(1453)以降。天文20年(1551)ごろから毛利元就が郡山全体を城郭化する大規模な拡張を行った。
テーマ
日本100名城戦国山城
基本情報
住所
広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山
アクセス
車:中国自動車道「高田インター」から約10〜15分。
電車・バス:JR芸備線「向原」駅からタクシーで約15分、またはバスで約25分。広島バスセンターから「吉田出張所」行きバスで約80〜90分、「安芸高田市役所前」下車徒歩約5分。
駐車場あり。麓の安芸高田市歴史民俗博物館を起点にするのがおすすめ。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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