この城について
関東地方でも数少ない総石垣の山城。鎌倉時代に笠間時朝(かさまときとも)が築いたと伝わり、江戸時代は牧野氏8万石の居城となった。続日本100名城の第112番に選ばれている。
歴史・由来
笠間城を理解する鍵は、鎌倉時代から明治維新まで、実に700年近くにわたってこの山が城として使われ続けたという点にある。
鎌倉時代前期、下野宇都宮氏の一族である笠間時朝(かさまときとも)が、佐白山(さしろさん)に城を築いたのが始まりとされる。時朝は武将としてだけでなく、和歌にも優れた人物として知られる。築城の時期については資料によって年代の記載に幅があり、正確な年は定まっていない。
以後、笠間氏は十数代にわたってこの地を治めたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の時期に、当主・笠間綱家(かさまつないえ)が宇都宮国綱(うつのみやくにつな)によって討たれ、笠間氏は滅びた。かつては綱家が後北条氏に味方したためとされてきたが、実際には豊臣方であったことがわかっており、過去に宇都宮氏と対立したことを理由に討たれたとする見方が有力になっている。
笠間氏の滅亡後、慶長3年(1598)に蒲生郷成(がもうさとなり)が城主となり、近江(現在の滋賀県)の技術を取り入れて石垣を築き、山城を近世の城へと大きく改修した。これが、関東地方でも数少ない総石垣の山城として今に伝わる姿のもとになっている。その後も松平・小笠原・永井・浅野・井上・本庄といった大名が目まぐるしく入れ替わり、浅野家の時代(元和8年から正保2年、1622から1645)には城下町の整備が進んだ。この浅野家は、のちに播磨赤穂(兵庫県赤穂市)へ移り、「忠臣蔵」で知られることになる。
延享4年(1747)、牧野貞通(まきのさだみち)が8万石で入封すると、以後明治4年(1871)の廃城まで、牧野家が笠間を治め続けた。明治の廃城令で建物の多くは失われたが、総石垣の遺構は今も良好に残っている。
見どころ・特徴
【総石垣の山城】
山頂部には「天守曲輪」「本丸」「二の丸」など複数の郭が連なり、石垣の遺構が関東地方でも数少ない見応えを見せる。
【立入禁止区域に注意】
東日本大震災(2011)で天守曲輪周辺の石垣や石段が崩れたため、天守曲輪と、そこにある佐志能神社(さしのうじんじゃ)の周辺は現在も立入禁止となっている。訪ねる際は現地の案内に従うこと。
【移築された八幡台櫓】
かつて本丸にあった八幡台櫓(はちまんだいやぐら)は、城下の真浄寺(しんじょうじ)に移築され、今も残っている。
【御城印と続日本100名城スタンプ】
御城印や続日本100名城(第112番)のスタンプは、笠間城跡のふもとにある「かさま歴史交流館井筒屋」の1階インフォメーションで扱っている。
【笠間稲荷神社・笠間芸術の森公園とあわせて】
笠間城跡の周辺には笠間稲荷神社や笠間芸術の森公園もあり、あわせて訪ねると笠間の歴史と文化を一日で楽しめる。
学び・特徴
指定・選定
笠間市指定史跡。続日本100名城(第112番)に選ばれている。
築城
鎌倉時代前期、笠間時朝(かさまときとも)が佐白山(さしろさん)に築いたと伝わる。築城の年代は資料によって差があり、正確な年は定まっていない。
テーマ
総石垣の城続日本100名城
基本情報
住所
茨城県笠間市笠間
アクセス
車なら、北関東自動車道の友部(ともべ)ICから国道355号経由で約20分。ふもとの千人溜(せんにんづめ)駐車場(無料、30台)まで行ける。ただし台風接近時や強風警報発令時は駐車場が閉鎖される。電車なら、JR水戸線笠間駅から徒歩約1時間。笠間駅や友部駅から観光周遊バスも利用できる。駐車場から山頂までは徒歩での登山となる。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
記録を確認中...