この城について
島津氏の重臣・佐多氏の本拠。シラス台地を巧みに利用した、薩摩独特の中世山城。「武家屋敷群」で全国的に有名な知覧の中核。続日本100名城#198。
歴史・由来
知覧城を理解する鍵は、この城が「シラス」と呼ばれる南九州特有の地形を最大限に生かしてつくられた、南九州型城郭の代表例だという点にある。
築城の伝承では、平安時代末期に郡司・知覧忠信(ちらんただのぶ)がこの地に城を構えたのが始まりとされる。室町時代に入り、足利尊氏の意向を受けて島津忠宗の三男・佐多忠光(さたただみつ)が知覧の領主となり、一時は伊集院氏の配下に移った時期もあったが、応永27年(1420年)に島津久豊が知覧を奪還すると、以後は佐多氏が幕末まで知覧を治め続けた。現在残る遺構の多くは、この室町時代から戦国時代にかけて佐多氏によって整備されたものと考えられている。
知覧城は、約26,000年前の火山噴火による火山堆積物「シラス」の台地(標高約170メートル)を巧みに利用してつくられている。高さ40メートルにも及ぶ切り立った崖と、台地を掘り込んでつくられた深い空堀によって、本丸(本城)・倉ノ城(くらんじょう)・今城(いまんじょう)・弓場城(ゆんばじょう)という4つの独立した曲輪が互いに区切られており、群郭式縄張(ぐんかくしきなわばり)と呼ばれる独特の構造をもつ。石垣を用いず、土を掘り込み・盛り上げてつくられているため、中世の姿がよく残されている。
11代当主・佐多久達(さたひさみち)の代、原因不明の火災によって城は焼失し、慶長20年(1615年)の一国一城令が発令される前に、すでに事実上の廃城となっていたと伝わる。その後、麓(ふもと)の亀甲城(かめこうじょう)付近には、薩摩藩独自の外城制度(とじょうせいど)にもとづく武士の集住地「知覧麓」が整備され、明治維新までこの地域を治める拠点として機能した。この知覧麓が、現在「知覧武家屋敷群」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されている町並みのもとになっている。
平成5年(1993年)、知覧城跡は国の史跡に指定された。「知覧」と言えば、まず武家屋敷、次に太平洋戦争の「特攻隊の聖地」として広く知られているが、その足もとには、こうした中世山城としての知覧城の歴史が眠っている。
見どころ・特徴
【シラス台地の空堀】高さ40メートルにも及ぶ切り立った崖と、台地を深く掘り込んでつくられた空堀が、各曲輪を隔てている。石垣を使わない土づくりの城でありながら、これほど大規模な防御施設をシラス地形だけでつくり上げた点は、南九州型城郭ならではの見どころ。
【4つの曲輪】本丸(本城)・倉ノ城・今城・弓場城という、それぞれ独立した4つの曲輪からなる「群郭式縄張」を体感できる。空堀の底を歩きながら、それぞれの曲輪へとアクセスする独特の構造が魅力。
【知覧武家屋敷群との組み合わせ】知覧城が廃城になったのち、麓に整備された武士の集住地が、現在「知覧武家屋敷群」(重要伝統的建造物群保存地区)として残っている。城跡とあわせて訪ねることで、中世の山城から近世の城下町へという知覧の歴史の流れをたどることができる。
【知覧特攻平和会館】近隣には、太平洋戦争の特攻隊員の遺品・遺書を展示する「知覧特攻平和会館」もあり、「知覧」という土地が持つもうひとつの側面にもふれることができる。
学び・特徴
指定・選定
続日本100名城 第198番。平成5年(1993年)5月7日、国の史跡に指定された。鹿児島県三名城のひとつにも数えられる。
築城
築城の伝承では、平安時代末期に郡司・知覧忠信(ちらんただのぶ)がこの地に城を構えたのが始まりとされる。現在残る遺構の多くは、室町時代から戦国時代にかけて、島津氏の一族である佐多氏によって整備されたものと考えられている。
テーマ
続日本100名城シラス台地の城
基本情報
住所
鹿児島県南九州市知覧町
アクセス
公共交通機関の場合、JR鹿児島中央駅から知覧方面ゆきの鹿児島交通バスに乗り、「中郡」バス停で下車後、徒歩15分から20分程度。あるいは、JR指宿枕崎線「喜入」駅からバスに乗り、「薩南工業高校前」バス停で下車後、徒歩約15分。
車の場合は、指宿有料道路「知覧」インターチェンジから約15分、または九州自動車道「谷山」インターチェンジから約45分。無料駐車場があり、24時間利用できる。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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