この城について
通称「雨城(うじょう)」。上総国の戦略的要衝に築かれた山城で、房総半島の戦国史を語るうえで欠かせない城のひとつ。室町時代、武田信長(たけだのぶなが)による築城と伝わり、戦国期には真里谷武田氏(まりやつたけだし)、後に安房里見氏(あわさとみし)の支配下に入った。
歴史・由来
久留里城(くるりじょう)を理解する鍵は、「雨城」という異名そのものにある。
伝承によれば、この城が完成したあと、3日に一度、21回も雨が降ったといい、これが「雨城(うじょう)」という別名の由来になったという。籠城戦に欠かせない水に恵まれた城であったことを物語る伝説である。
築城については諸説あるが、有力なのは康正2年(1456)ごろ、上総国の守護代となった武田信長(たけだのぶなが、甲斐武田氏の一族で上総に下り、後の真里谷武田氏の祖となった人物)による築城説である。平将門(たいらのまさかど)の三男によるという伝説も伝わるが、こちらは史実というより言い伝えの域を出ない。
戦国時代、久留里城は真里谷武田氏の支配を経て、天文年間(1530年代後半ごろ)、安房(あわ)の里見義堯(さとみよしたか、1507-1574)が上総に進出し、本拠をこの城に移した。義堯は安房里見氏の最盛期を築いた武将で、後年、久留里城で生涯を終えている。永禄7年(1564)、里見氏は下総・国府台(こうのだい)で北条氏康(ほうじょううじやす)と戦い(第二次国府台合戦)敗れると、久留里城も一時的に北条方の支配下に入った。しかし里見氏はあきらめず、2年後の永禄9年(1566)ごろまでに久留里城を含む失地を回復し、その後も度々の北条方の攻撃を退けたと伝わる。
江戸時代には久留里藩の藩庁が置かれ、大須賀氏(松平忠政)、次いで土屋氏が城主を務めた。土屋氏の改易後は長く廃藩となっていたが、寛保2年(1742)に黒田氏が入り、あらためて久留里藩を立藩。以後、明治4年(1871)の廃藩置県で廃城となるまで、黒田氏の居城として続いた。今は「久留里城跡」として君津市に整備され、模擬天守と資料館が、この城の歩んできた歴史を伝えている。
見どころ・特徴
【模擬天守】昭和54年(1979)に本丸跡へ再建された模擬天守。江戸時代の姿を伝える正確な資料は残っておらず、あくまで往時をしのぶための再建だが、城跡のシンボルとして親しまれている。
【男井戸・女井戸】山頂近くに湧く二つの井戸。籠城戦を支えた貴重な水源として今も残る遺構で、久留里城が「雨城」と呼ばれた所以を実感できる場所のひとつ。
【久留里城址資料館】模擬天守のそばにある資料館では、里見氏の歴史や、久留里の城下に伝わる資料が展示されている。
【久留里の名水】城下町には今も名水が湧き、環境省の「平成の名水百選」に選ばれている。井戸めぐりも城下散策の楽しみのひとつ。
【桜と紅葉】本丸跡の桜(4月)と紅葉が、季節ごとに城跡を彩る。
学び・特徴
指定・選定
江戸時代は久留里藩(藩主:大須賀氏3万石→土屋氏2万石→黒田氏3万石)の藩庁。
築城
康正2年(1456)ごろ、武田信長(上総武田氏の祖)による築城と伝わる。平将門の三男による築城という伝説もあるが、史実としては確認できない。
基本情報
住所
千葉県君津市久留里455
アクセス
JR久留里線 久留里駅から徒歩約30〜40分。車の場合、圏央道木更津東ICから約15〜20分。駐車場あり(乗用車130台・大型バス6台、無料)。久留里城址資料館は9時から16時30分まで開館、月曜休館(祝日の場合は翌日休館)、入館無料。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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