この城について
金山城(かなやまじょう)は、群馬県太田市の金山(標高239メートル)にある、戦国時代の山城(やまじょう)です。国の史跡で、日本100名城の17番にも選ばれています。
石垣や石敷きを多く使った城で、関東の山城には本格的な石垣はないとされていた従来の考えを、発掘調査が覆したことで知られます。正面の出入口である大手虎口(おおてこぐち)の石垣群が見どころです。
歴史・由来
金山城を理解する鍵は、「新田氏の流れをくむ岩松氏が築き、のち家臣の横瀬(由良)氏が受け継いで、上杉・武田・北条という大勢力のはざまで生き残りを図った城」という点にあります。
文明元年(1469)、新田氏(にったし)の一族である岩松家純が、金山に城を築きました。ふだんは麓の居館で暮らし、戦いのときは山頂で守るという、山城ならではの使い方をする城でした。
やがて、岩松氏の家臣だった横瀬氏が力をつけます。享禄元年(1528)、横瀬泰繁・成繁が主君の岩松昌純を討って、実権を握りました。横瀬氏はのちに由良(ゆら)氏を名乗ります。
戦国の関東では、上杉・武田・北条の三大勢力が争っていました。由良成繁・国繁の時代の金山城は、その争いの中でたびたび攻められながらも、持ちこたえたと伝えられます。天正2年(1574)には、上杉謙信が城攻めのために陣を張った記録が残っています。
しかし天正12年(1584)、由良国繁は北条氏の支配に従うことになり、金山城も北条氏の手に入ります。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が敗れると、秀吉方の前田利家らが城を受け取りました。同年8月に金山城は廃城となり、山城としての役目を終えます。
その後、城跡は昭和9年(1934)に国の史跡に指定されました。近年は発掘調査と復元整備が進められ、石垣や池などが、戦国時代の姿を伝えています。
見どころ・特徴
【石垣が語る山城】
金山城は、山の上の城に石垣や石敷きを多く使っていることが大きな特徴です。
関東の戦国時代の山城には本格的な石垣はないとされてきましたが、発掘調査によってその考えが覆されました。城の歴史を書き換えた、大切な遺跡です。
【大手虎口の石垣】
虎口(こぐち)とは、城の出入口のことです。大手虎口は正面の出入口で、積み上げられた石垣が、敵を寄せつけない城の守りの強さを今に伝えています。
【月ノ池と日ノ池】
山の上には、月ノ池(つきのいけ)と日ノ池(ひのいけ)という二つの池があります。復元整備が行われ、戦国時代の姿を伝えています。
【山頂の本丸と新田神社】
標高239メートルの山頂が、城の中心である実城(本丸にあたる場所)です。本丸跡には新田神社が建っています。尾根ごとに曲輪(くるわ、城の平らな区画)が広がり、堀切(ほりきり、尾根を断ち切る溝)や土橋(どばし)などの遺構も残っています。
【史跡金山城跡ガイダンス施設】
麓にある無料の施設で、金山城跡のデータベースやジオラマ、戦国時代の様子を映すスクリーンなどがあります。登る前に見ておくと、城の姿がつかみやすくなります。
【日本100名城のスタンプ】
日本100名城(17番)のスタンプは、日ノ池の南側にある南曲輪(みなみくるわ)の休憩所にあります。設置場所は変わることがあるので、現地でご確認ください。
学び・特徴
指定・選定
日本100名城17番・国指定史跡(昭和9年・1934年指定)
築城
文明元年(1469)に新田一族の岩松家純が築城。天正18年(1590)に廃城
基本情報
住所
群馬県太田市金山町40-98
見学時間
史跡金山城跡ガイダンス施設は、9時から17時(入館受付は16時30分まで)です。月曜日(月曜日が祝日・休日の場合は翌日)と年末年始(12月29日から1月3日)は休館です。入館は無料です。開館日・時間は変更される場合があります。お出かけ前に公式サイトでご確認ください。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
東武伊勢崎線の太田駅から、史跡金山城跡ガイダンス施設まで徒歩約50分、タクシーで約10分です。車の場合は、北関東自動車道の太田桐生ICから約10分です。市営の駐車場が複数あります。ガイダンス施設から山頂の実城までは、徒歩で30分前後とされています。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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